12月1日(金)
夜の、名古屋市美術館。
藤田嗣治の作品が30点展示されている、終了間近のランス展に駆け込んできた。
企画展終了2日前の、閉館50分前。
文字通りの駆け込みで、最初の区画は鑑賞と言うより、クールダウンに費やされた。
目的は最後の区画。
そこに差し掛かる頃には呼吸もすっかり落ち着いていた。
藤田の作品は、布の質感の再現と、アイスブルーの色合いがすばらしい。
それから今回の展示でもう一つ好きになったのは、瞳の透明感。
空洞のような、深淵のような、涯の見えないその奥に、つい手を引かれるような感覚だった。
美術館が好きだけれど、絵画などの感想を求められると途端に困ってしまう。
最近読んだ志村ふくみさんの本の中に、「一枚の絵を心から欲しいと思う以上に、その絵について完全な批評があるだろうか」という引用があり、なるほどその通りだと思った。
美術館の回廊を巡りながら、その絵画が掛かっている部屋を想像する。
その彫像が佇む間取りを想像する。
自分が腰掛けるその高さから、絵画はどう見えるだろうか。
目覚めた部屋の朝日に、彫像はどう照らされるだろうか。
そんなふうに。
藤田の絵が生活のなかに在ったとしたら、それだけで随分いいな、と思う。
随分いいな、という言葉がふさわしい。
美術館の後、映画館へ。
館、と名のつくところが好きだ。美術館、映画館、図書館。
大学生の頃、崇拝していた魚喃キリコ。
痛々しいラヴ。
キャンディーの色は赤。
東京という街と、あの頃の頽廃的な生活のすべてが作品のなかにあって、どの主人公も自分に思えていた。
けれど、痛いほど解る、とあの頃思っていたことも、多分今のほうがずっと解るのだろう。
映画には、東京タワーのシーンが出てこなかった。
出てこなかったことに、映画を観ているあいだには気付かなかった。
翌朝それに気付いて、慌てて、確かめるように、東京タワーのキーホルダーを日に透かしてみた。
ゆらゆら、青い液体の中に、小さな赤い東京タワーが浮かぶやつ。
もう随分と、東京タワーを見ていないけれど、 出来れば、東京タワーがいちばん官能的に見える雨の日に、雄二さんと手をつないで東京タワーを見たいと思った。
追記
映画には、小さな愛しさと苛立ちがたくさん詰まっていて、一緒に八つ当たりしたくなったり泣きたくなったりした。
それから、最後の方のシーンで、ライブハウスの楽屋の壁に破けたペトロールズのSIDE BY SIDEのポスターが貼ってあって、ぐっときたことは言うまでもない。
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