12月5日(火)
早々に、だけれど
ここを閉じることに。
書き始めたものの、すべてが押し付けのような気がして、後ろめたかった。
ごめんなさい。
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12月1日(金)
夜の、名古屋市美術館。
藤田嗣治の作品が30点展示されている、終了間近のランス展に駆け込んできた。
企画展終了2日前の、閉館50分前。
文字通りの駆け込みで、最初の区画は鑑賞と言うより、クールダウンに費やされた。
目的は最後の区画。
そこに差し掛かる頃には呼吸もすっかり落ち着いていた。
藤田の作品は、布の質感の再現と、アイスブルーの色合いがすばらしい。
それから今回の展示でもう一つ好きになったのは、瞳の透明感。
空洞のような、深淵のような、涯の見えないその奥に、つい手を引かれるような感覚だった。
美術館が好きだけれど、絵画などの感想を求められると途端に困ってしまう。
最近読んだ志村ふくみさんの本の中に、「一枚の絵を心から欲しいと思う以上に、その絵について完全な批評があるだろうか」という引用があり、なるほどその通りだと思った。
美術館の回廊を巡りながら、その絵画が掛かっている部屋を想像する。
その彫像が佇む間取りを想像する。
自分が腰掛けるその高さから、絵画はどう見えるだろうか。
目覚めた部屋の朝日に、彫像はどう照らされるだろうか。
そんなふうに。
藤田の絵が生活のなかに在ったとしたら、それだけで随分いいな、と思う。
随分いいな、という言葉がふさわしい。
美術館の後、映画館へ。
館、と名のつくところが好きだ。美術館、映画館、図書館。
大学生の頃、崇拝していた魚喃キリコ。
痛々しいラヴ。
キャンディーの色は赤。
東京という街と、あの頃の頽廃的な生活のすべてが作品のなかにあって、どの主人公も自分に思えていた。
けれど、痛いほど解る、とあの頃思っていたことも、多分今のほうがずっと解るのだろう。
映画には、東京タワーのシーンが出てこなかった。
出てこなかったことに、映画を観ているあいだには気付かなかった。
翌朝それに気付いて、慌てて、確かめるように、東京タワーのキーホルダーを日に透かしてみた。
ゆらゆら、青い液体の中に、小さな赤い東京タワーが浮かぶやつ。
もう随分と、東京タワーを見ていないけれど、 出来れば、東京タワーがいちばん官能的に見える雨の日に、雄二さんと手をつないで東京タワーを見たいと思った。
追記
映画には、小さな愛しさと苛立ちがたくさん詰まっていて、一緒に八つ当たりしたくなったり泣きたくなったりした。
それから、最後の方のシーンで、ライブハウスの楽屋の壁に破けたペトロールズのSIDE BY SIDEのポスターが貼ってあって、ぐっときたことは言うまでもない。
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11月30日(木)
たなかみさきさんの画集を買った。
たまに雄二さんに似ているやつ。
いつの間にか、11月がゆく。
指の隙間から、こぼれ落ちていく。
いつも一緒じゃなくていいわけないよ
ずっと一緒じゃなくていいわけないよ
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11月29日(水)
テスト初日。
午後は職員室の掃除当番で、せっせと埃まみれになる。
夕方、ゆきことスーパーで買い出しをしてさとみちゃんの家へ。
ゆきこはわたしが食べられない明太子サラダとネギトロ寿司をかごに入れたけれど、
自分が食べられないものを、目の前で食べられるのは全然いやじゃない。
いやじゃないどころか、おいしそうにそれを食べることができる相手を、いいなと思う。
だからじゃんじゃん入れてね、好きなもの。
と、言っていたら買い物カゴがすぐにいっぱいになった。
雄二さんとスーパーに行く時のことを、思い出す。
カートで少しやんちゃする雄二さん。
一応、買いすぎないようにしようとするわたし。
いつか、一緒に暮らしてそんな買い物がほんの日常の営みの一部に過ぎなくなっても、
生活のためにしなくちゃいけないこと、ではなくて
一緒に行くと楽しいから、という気持ちでいられたら幸せだと思う。
夜は、餃子とチヂミを囲んで同期会。
おんな三人、鉄の精神をもって四年間多くの試練をかいくぐってきた仲だ。
泣き虫だったゆきこはたくましくなったし、さとみちゃんは見違えるほど細くなった。
入職したとき、三人ともロングだった髪も、今ではうんと短くなった。
未だにゆきこはわたしとさとみちゃんに敬語で話すけど、何だかんだ四年をかけてじっくり熟成させてきた同期の絆だ。
来年もしかしたら三人ともここにいないかもしれなくて、同期会は少ししんみりとしたけれど、
それぞれに強くなったわたしたちは
どこにいったって大丈夫だな、と
最後の一口のチヂミを箸で持ち上げながら確かめるように思った。
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11月28日(火)
明け方、まっ暗な中で聴いたElliott smith.
映画『グッドウィルハンティング』のカフェのシーンでほんの一瞬、ささやかに流れるこの曲を、雄二さんも好きと知ってから余計に好きになった。
雄二さんがいない朝や真夜中、ふいに孤独の陰がさしたとき、差し出された手のようにほんの少しだけ救いをくれる曲。
今朝はめぐとおばあちゃんが京都に出かけた。面と向かって、楽しんでおいでと言えない代わりに、旅のガイドブックに手紙とお昼ご飯代を封筒に入れて突っ込んでおいた。
昼前に、それに気づいためぐからメール。
もみじの写真を何枚か送ってくれた。
三代に渡り、つくづく下手くそな親子だ。親子について、家族についてというのは、全然理解できないけれど、そうやって償ったり償われたりしながら生きていくのがそれなのだろうな、とも思う。
空き時間、図書室に顔を出したらたくさん新しい本が入っていた。栗原はるみのレシピ本が何冊か入っていて、冬の料理をいくつかメモ。作りたいものがたくさん。雄二さんが好きそうなものを思い浮かべながら。冬、中川村にいるあいだは、できるだけたくさん温かい料理を作りたい、と思う。
雄二さんが忙しくて、疲れ果てているときはどうしても心がざわざわする。
何かしてあげたくて考えるけれど、できることは少ない。
疲れて言葉少なになるのは、自分だって同じのくせに、心配になったり気持ちをうかがったりしてしまう。
「早く、雄二さんがゆっくりできますように」
「早く、いつもの雄二さんが戻ってきますように」
離れて暮らすということは、かたちないものへの祈りに似ている。
離れた場所で、違う日々を過ごしながら、わたしは今日も祈っている。
祈っているから、いつでも、安心して生きていてね。
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